第3部門は、日舞、着付け舞、すずめ会、佳卓(ヨシタカ)舞踊、邦楽、むさしのばやし、むさしの百人一首の団体・グループが活動を行っています。
日舞
武蔵野日本舞踊連盟
武蔵野日本舞踊連盟は、来年70周年を迎える長い歴史を持つ、自国の伝統芸能である日本舞踊を皆様に楽しみ、親しんでいただけるよう活動を行っている団体でございます。
市の行事として年に二回公演を開催しております。春は日本舞踊イベントとして、様々な伝統邦楽器による生演奏との共演や、衣裳・かつらを用いる等、毎年テーマを決め、お客様に日本舞踊をじっくり鑑賞していただく為の舞台創作・企画をいたしております。秋は武蔵野市民文化祭に参加いたしまして、子供さんや若い世代から大人・年配の世代まで、出演者もお客様も、幅広くお楽しみいただける賑やかな公演を行っております。
その他武蔵野市のイベントやワークショップ、子供教室、ボランティア活動等、様々な形で地域社会に貢献しております。日本独自の、どなたでも楽しむことのできる本物の伝統芸能を一人でも多くの皆様にお伝えできるよう、日々芸の精進と共に、企画制作を行っております。
着付け舞
私達は自然の恩恵や、社会活動や家族の絆等大切なものに守られながら生活している事を強く感じています
日本の民族衣装である着物を大切に思いもっと楽しんで、そして継承を願っています
着物への憧れは皆んな持っているのですが着る機会が少なく、着付けが難しいので特別な日だけは着物で祝いたいとの思いの様です
そんな中,着付け舞の千寿会のメンバーは日々着物を着る事、着せる事を研鑽しています
そんな折、私達の活動が認められ芸術文化協会の会員として2016年より舞台に立たせていただく事になりました
毎年、舞台に立つ事を楽しみに、真剣に向き合っています
着付け舞とは音楽のイメージに合わせて、着物や帯を着装することです
これからも年齢に負けないように優雅な所作や帯結びの技術を磨いていきます
浴衣や着物を着てみたい方に、お手伝い出来ればとボランテイア活動もしています。何時でもご依頼下さい
佳卓流家元佳卓先生に企画をお願いしまして、すずめ会様と音頭をご一緒に踊らせていただいたり、喜々踊々の舞台で着付け舞を披露させて頂ける事、会員一同励みに、幸せに思っています
武蔵野市の芸能文化活動の発展を願いこれからも研鑽努力して参ります
皆様、これからもよろしくお願い致します
千寿会 会主 遠藤 千賀子
すずめ会
創立・命名
2015年(平成27年)3月14日に誕生。
NPO法人kokoの会 高齢者の音楽を考える会の庵原理事長がスイングホールで「歌いつなごう武蔵野市ゆかりの音楽家」のプロポーザル事業に応募。半年の研究と調査の発表の講演に「むさしの音頭」の踊り手10数名の依頼を受け、舞台でインタビューを受けた岩渕先生が「すずめ百まで踊り忘れず」から今後も踊り続けていけます様にと願いを込めて「すずめ会」と命名。
指導
吉村仙こと 本名岩渕幸子さん
人間国宝吉村流地唄舞の家元4代目吉村雄輝先生のお弟子さん。
6年間ボランティアで教えていただいています。
曲 名
地唄舞 高砂ほか民謡舞踊 20曲。
練習場所・時間
主に八幡町コミセン第1第3の土曜日午後1時から。
会員
16名 随時募集老若男女どなたでも
感謝
創作日本舞踊家の佳卓会佳卓家元と着付け舞の皆さんと共に秋のフェッシバルの喜々踊々の舞台に出演させていただいています。民謡連盟の中川会長からゲストとして春秋の2回出演させていただいたことがすずめ会の基盤となっています。
佳卓(ヨシタカ)舞踊
武蔵野市民文化祭関連行事として私共創作新日本舞踊佳卓流と、民謡舞踊すずめ会の皆様との共催で舞踊発表会を開催することになり、私共も他団体との同じ舞台を創るということは、これまでに経験が無いに等しいので、指揮を取る立場となったうえで、戸惑いや不安も多々ありましたが、民謡舞踊すずめ会会主寿々女様こと岩渕幸子様、そして会の皆様のお人柄により、終始和やかなにこの舞台を創ることができました。何よりも、私がこの会のタイトルに掲げました「喜々踊々」。この度参加した者全てが“喜び溢れて踊り、また踊る事で喜びが増す”という共通点を持っていたことが、何よりも共に舞台を勤められた要因と思います。会場では入り切れずご入場を、お断りしてしまったお客様もあった様で、大変心苦しく思っております。改めまして、ご来場頂きました皆様へ厚く御礼を申し上げます。
芸文協の一員として、武蔵野市の芸術・文化・芸能の発展へ少しでも力を発揮できるよう邁進致して参りますと共に、市民の皆様に芸術・文化・芸能が大切なものだと思われる様、拘る全ての方々の意識改革、そして作者や演者のレベル向上に務めて参りたいと思います。
今後とも、末永くご指導ご鞭撻の程賜ります様、何卒宜しくお願い申し上げます。
創作新日本舞踊 佳卓流 家元 佳 卓
邦楽
武蔵野邦楽連盟
《武蔵野邦楽連盟の歴史》
◆武蔵野市市政が始まると間も無く、市からの打診を受け、社会教育として「文化の武蔵野」を醸成してゆくため市内在住在勤の文化人に声をかけて、各団体を作りたいとの相談を受け市内在住在勤の邦楽関係の人に声をかけ、戦前からの活動をしていた団体をまとめて、箏曲・尺八や清元、小唄などなども集まった武蔵野邦楽連盟が誕生しました。約70年前の話です。
当時、初代市長は自らも茶道を嗜み、文化に対して、大変造詣が深くありました。戦後、「市」として始まって間もなく、そうした取り組みが始まりました。
◆「武蔵野市の文化の向上」を旗印に、各分野に広がり、文化祭も多くの分野の人たちが加わりました。
◆武蔵野邦楽連盟も、舞踊連盟と一緒になり、武蔵野商工会議所に於いて、会員が腰に手ぬぐいを下げての力仕事の汗をかき、手作りで、会議室に舞台を作り、設営・運営・大道具など、すべて会員の手で準備され、記念公演が開催されました。
◆数年後、急速に拡大してゆく中で舞台も狭くなり、邦楽と舞踊が夫々に分かれての連盟に発展。
◆昭和53年、文化祭を中心にした活動も軌道に乗り、市内各団体が一堂に会する場として、文化祭を市民の手で運営する「文化祭実行委員会」が召集され、連盟も参加。「フェスティバル・日本の伝統芸能公演」の責任団体となる。
文化祭実行委員会では、副会長として、現在の団体・武蔵野市民芸術文化協会が発足するまで、邦楽連盟は、邦楽だけに留まらず、多大な貢献をします。
◆11年後の昭和63年、文化祭実行委員会が母体となり、現在の武蔵野市民芸術文化協会が誕生。邦楽分野の責任団体となる。
◆昭和64年から始まった、芸文協(武蔵野市民芸術文化協会の略称)公演の統括責任団体として、連盟会長が6年間企画局長を務める(写真はその時の「薫風フェスタ」の鏡獅子)
◆以後、その時代時代の変化を乗り越え、現在に至ります。
むさしのばやし
むさしのばやし保存会
吉祥寺囃子(むさしのばやし)は今から159年前の文久2年(1862年)に吉祥寺村の人たちが中心となり生まれ、娯楽の少なかった時代に吉祥寺村の八幡神社今の武蔵野八幡宮のお祭りを賑やかにするために、四軒寺(蓮乗寺・月窓寺・光専寺・安養寺)周辺と本宿辺りの若者たちが習い覚えて、今日まで伝えられてきました。
吉祥寺囃子連中は以後、明治大正を経て昭和にかけて、田無の開祖西林源六氏(都無形文化財)という速間田無流を編み出した師匠の指導を受け、大きな影響を与えられて、現在に至るのですが、吉祥寺囃子連中も中間の田端流から速間船橋流へ、さらに速間田無流へと三段階を経て現在に至っています。昭和37年頃より「武蔵野囃子吉祥寺囃子連中」と呼び、吉祥寺囃子を市が伝統芸能として保存することになり、昭和46年に武蔵野市無形文化財(現在は無形民俗文化財)「市技芸第1号」として指定をうけました。
むさしの百人一首
武蔵野子供百人一首会
武蔵野市民芸術文化協会の主催で開催されてきたこどもかるた大会を、私が受け継がせていただいてから5年以上が経ちます。毎年新春にこどもかるた大会(百人一首)を開催しております。開催に際しては、当初日本に伝わる小倉百人一首を用いて大会を催しておりました。しかし、私たちの住む武蔵野市にも、昔から伝わる伝統は勿論のこと、様々な事例があることを考えると、武蔵野市に関することで百人一首ができないものだろうかと考えました。そして、百人一首にすることで、武蔵野市に関わる歴史や伝統そして文化に触れていただき、次世代を担う子どもさんたちに、来世まで繋げていっていただきたい思いが募り、作製しなければいけないと感じました。
そこで、武蔵野市に住む方や関わる方々から武蔵野市にまつわる詩を公募により集めて、百人一首を作製することを提案し、公募より176 首もの詩を応募いただきました。頂いた詩は、「武蔵野市こども文化・スポーツ・体験活動団体支援事業費補助金」を頂戴し、厳選のうえ「むさしのかるた」を製作しました。その「むさしのかるた」を使用した大会を実施しております。今後もこどもかるた大会に使用するとともに普及していけるように努力していきたいと思っております。
渡邉 仙尚